奇跡を信じる

突然奇跡を信じるといわれてもなんのこっちゃと思うかもしれない。奇跡は、普通に考えたら起こりえないことが起こること、例えば、どう考えても助からない交通事故で瀕死の状態から奇跡的に快復する。スポーツで実力の差は明らかだが、奇跡的に勝利するなどと言ったことである。

 

奇跡を起こす法則なんてあるのか考えてみた。奇跡を信じるというのだから、そのわずかな確率で起こることが実際に起こることを信じること。それに対して働きかけること、それに加えて運もある。どんなに信じても、どんなに努力しても低確率である以上、奇跡が起こらないことの方が多い。

 

私は、奇跡が起こるように生きるようにしたい。起こる確率は低いかもしれないけど働き掛けない限り、奇跡は起こりえない。働きかければ1%の確率でも100回やれば一回は起きるのだから。

 

奇跡は起こらない前提で生きていると、現実的ではあるが、それ以上のものを期待しなくなる。私が奇跡を起こせないならば、いかに今の仕事を続けるか、いかにして昇進するかを考えることになる。悪くはないが、私は奇跡が欲しい。私は、教育に携わる仕事がしたい、そのために、日々勉強しているのである。学校に通うのが難しい子を助けられるような仕事に携わりたい、そんな希望を持っているので、信じて勉強を続け、詳しい人に接する機会を設けたりと可能性を1%でも広げられるようにする。

 

実際に普通の会社員が40代前後で教育の仕事に転職する確率は1%以下かもしれない、しかし、私が信じて、働きかければ確率は上がるのは確かだと思う。

 

だからこそ奇跡を信じる。

 

 

私ができる最大の貢献

私は、できれば穏やかに毎日を過ごしたい。しかし、場所によっては穏やかさが乱されることがある。ある人はそこにいるだけで穏やかさが乱される。

 

そんな時に私が、周りに与える影響を考えたりする。

 

私は、そこにいるだけで貢献しているのだろうか、誰かの心を乱していないではないだろうかと自問してみたりした。

 

家庭では子供たちが喜んでくれているので幸い貢献している時もあるが、

明らかに子供が警戒している時もあるので、いつでも安心していられるような環境を私は作りたいと思った。

 

家の中が家族皆にとって一番落ち着く場所にしたいと思った。

 

私の心を乱している上司は家ではどのように思われているのだろう。

 

そう考えるとご機嫌できることが最大の貢献であるような気がする。

別に何か特別なことをする必要はない、その場を和ませてくれる雰囲気があるだけで、一番貢献できるのだなと。

 

特別偉くなって大きなことを成し遂げるのもいいんだろうけど、毎日ご機嫌でいることにより、周りが幸せになることってすごく貴重なことだと思う。

 

そんな人を目指したいと思った。

 

 

体力勝負

人間体力が非常に大切だと痛感した。昨日の台風後の通勤混雑の時の肩のこりが今日も取れずに、全然仕事に集中できなかった。周りからは年だからと言われるが、そういわれても私にはやりたいことがたくさんある。

 

最近は、やりたいことがあっても疲れてやることができなかったり、動画視聴など簡単なものに走りがちになっていたが、今日ほど体力あればいろいろできるなと感じる一日であった。

 

ここ最近運動をあまりしていなかったので、本腰入れて再開したいと本当に思った。その方が疲れが取れやすいし、すっきりするのでストレス解消にもなる。ちょっと今日はそんなことを考えた。

 

 

自分がなりたい自分を達成するためには流れに乗ったままでは成し遂げられない。年だから体力が落ちるのは当たり前、仕方ない、で終わるわけにもいかず、年だったら、体力つけて行けば、知恵も活用して、若い体で成熟した知恵を用いる最強の体が完成する、ような気がする。

 

 

 

空気を読むのが苦手な私

 このブログを読んで気づくと思う人も多いかもしれないが、基本的に私は、空気が読めない。全く読めないというわけではないのだが、その場にあった反応ができない。どうしてもワンテンポ遅れる。それはそれで別に気にしていない、私は私のことに集中しているので、それにわざわざ適切な反応もそんなに必要ないと思っている。

 

自分はとことんマイペースだなと思う。しかし、他の人のペースに合わせると

あまりにも疲れ、あまりにも時間を効率的に使っていると思えないので、自分の考えを優先させていただいている。

 

だって、上司が帰らないという理由で残業する必要がないのに残業することないでしょ。

実際に、上司よりも先に帰ることはよくあることだが、それによって文句を言われたり、注意されたことは一度もない。だったらそれでいいじゃん。

 

評価は先に帰ろうが、後に帰ろうが特に変わらない。売り上げに直結した目に見える成果がない限り評価は上がらないので、残業ってホント無駄だな。

 

 

 

 

 

そりゃ、生産性も下がるよ。疲れる必要のないところで疲れているんだから。

ただでさえ、ストレスフルな仕事を余計ストレスフルにする意味がわからない。

そこは空気読む必要あるのかなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

私は、正しいことをしたい、周りから変に思われてもそうしたい。私にとって家族は大切なのだから家族と過ごす時間をすこしでも増やしたいので、やりたいようにやらせてもらう。

 

ストレスレスな生活を目指して

 私は、小さい時から我慢を重ねてきたせいか、自分にストレスをため込む傾向がある。だからこそ、ブログで吐き出しどころを作っている。何が不安って、人の反応が非常に不安にさせる。例えば、風邪をひいて仕事を休むとき、休みますとメールを出すまでに本当に時間がかかる。何か言われるのではないか、愚痴られるのではないか、それによって評価が下がってしまうのではないか等々。

 

 

気づいたことは自分がどうあるかではなく、他人に自分がどう見えているかに異常なまでに気を遣っていることに気が付いた。人生で他人のことを気にしないで行動できた時もあったが、環境が整っている時だけでそうでないときは本当に気を遣ってしまう。

 

 今の私の不安、それは、上司の反応、それに限る。

 

文句や愚痴を言われるのではないかと思うと余計委縮してしまい、何も言えなくなってしまう。周りから見たら、何もできない人にしか見えないのである。

 

悩ましいのではあるが、私は、人の目線、意見を気にしないで行動できるようになりたい。私の中にある心のブレーキ、特定の条件が合えば、外れて、自由に行動できることがあるが、今はそれを求めている。

 

いい加減に環境を変えたほうがいいのだろうか。

 

 

というか少しずつ始めているといってもいい。家族もいるのでいきなり仕事を辞めるわけにもいかないので、いろいろ学び始めている、そこから自分が本当に自分らしくあり、心から喜んで仕事ができるようになりたい。

 

 

 

 

 

睡眠を制する者は人生を制する

毎週、半ばはいつも不安に取り憑かれたようになってしまう。自分の業務報告等を行う必要があるためだ。特にサボっているわけではない、しかし、必ずと言っていいほど説教が入るので、それに付き合うのに億劫なのだ。そのために、仕事のペースは乱れるし、朝は、布団から起き上がるのが億劫になってしまう。

 

 

 

朝の過ごし方で思い出されるのが、朝は早起きで目が覚めたら布団から早く出たほうがいいということ。昔、ずっと布団の中にもぐっていると、嫌なこと、不安なことばかり考えてしまい、どうしてもポジティブになれない自分がいた。ネガティブな思いが余計布団から出るのを面倒にさせるのだが、実際出てくると起床モードになるのでネガティブな思いは半減している。

 

つまりは、朝起きたら早く布団から出ろということ。

 

それだけで一日のスタートが順調になるということ。

 

確かに最初の10分くらいはもう少し寝ていたいと思うが、それが過ぎると、普通に生活がで切る状態になる。特に布団の中で悶々としていた悩みも忘れている。

 

 

あとは、早寝は基本だけど、仕事をしている以上、毎日8時間きっちりというのは難しい。どうすればいいか。

 

睡眠の質を向上させれば十分に休息は取れる。

 

私が一番実感しているのはグリシンを取ること。

 

 

簡単に眠りにつけます。しかも熟睡感がすごくある。袋分けになっているものもあるが、私的には、下のような大袋のものが好きである。量も調整できるし、単価的にも安上がりである、半年以上は使えると思う。

 

 

人生眠りって本当に大切。うまく眠れると人生もっと楽しくなる。いろんなことを達成できると人生ってやっぱり楽しいと思う。眠いの我慢して仕事、勉強するより、よく寝たほうがよっぽど効率がいい。

 

働き方改革ってまず、睡眠改革からだったりして。

物事を決断する

人間だれしも安定を求める。急激な変化を嫌い傾向がある。

 

その、安定を得るためにしていることがある、「決断をしない」ことだ。

自分の中でも、あまりにも体力がない時、疲れ果てている時あえて決断しないことを選んでいる。決して悪いことではない、決断しないことも決断の一つだからだ。

 

しかしながら、人生の局面に来た時に決断を求められることがある。そこで、決断しない決断をしてしまうと、後悔してしまうことがある。

 

私が高校生の時そうであった。本来やりたかった留学をするための労力が多すぎるのを嫌い、皆がたどった同じ地元の大学に行くという流れに乗ってしまった。

 

今となってはその判断は黒歴史となってしまった。

 

その大学では結局一人も友達ができることなく、中退。

 

 

そのあと、決断したのであった。留学をすることを。

 

確かに大変なことはたくさんあった。TOEFLの点をある程度の得点まで上げる、

願書の提出、成績証明書を英語で提出、ビザの取得、等もろもろの手続きがあったが、念願の留学ができた。そして、自分で決断したことに関しては決して後悔していない。

 

最高の4年間を過ごすことができた。

 

大切なのは留学どうこうではなく、自分で決めて自分で行ったことだ。

 

決断をする際、どのようにすれば正しい決断ができるか。

 

難しい、簡単にできるものではない。

 

私の中では、あることを達成すると決める。

それが成功するまで続ける。

成功しない場合は、それは正しい決断ではなかったと悟る。